はくにゃんの調書

日記、何もしていないことに気がつく

『ハート・ロッカー』

どこで悪意なんかを判断するんだろうと思う。というか、見られることって根本的に嫌な感じがあるのではないか。爆弾処理中だとすればなおのことだと思う。冒頭、解体処理を試みている。やむなく爆弾に近づく。野次馬の男が携帯を取り出す。それだけで大変なことだ。
最もよいタイミングで誰かが起爆させている。地雷とはまた一味違うところだ。どうなんだろう。ということは、見られるということが、命のやり取りだということ。
軍服を着て、異国の大地にあって、単純に目立つし、現地の人も見るにきまってはいるのだろうけど。
そこらへんが、よく描けている映画かなと、少し思った。例えば処理に携わっている人が、周りを警戒してビルの階段や、なにやら塔の上からこちらを見ている人を把握するシーンはいくつもあるけれど、
一人称的にガサガサカメラを動かしているというよりも、ここにもいるよ、あそこにも、
固定されたカメラの切り替わりでに何人もの傍観者(うーん観測)している人がいる、といった感じ、
窓の、格子越しに解体作業中の兵士を捕えているシーンなんて、もうその最たる感じ、(どの?)
とにかくもう、把握できない視線が多すぎる、僕はこれを見て、なんて無防備なんだろう、って思う。
その緊張感がある。その源は、爆弾によるものじゃなくて、見られていることから来ているものなんだと、観ている僕は認識する。
視覚の拡張。戦争の、ほとんどにまつわるものだろうけど。
中盤の、砂漠の狙撃戦。どこから撃たれているか、わからないだろう。
このへんは、最近、ユーチューブによくある(ダメな言い方かも)兵士の頭部につけられたアクションカメラの映像とかも踏まえて考えてしまう。
遠くの小屋(建物)の窓の暗がりからニュッと相手の狙撃手と観測手が出てくる。銃口が光る。するともう弾が到着して、穴が開くか、開かないか。音が聞こえたら幸い、君は即死じゃなかった、なんて、
なんて世界だろうな。

僕は戦争映画を見ているとどうしても頭を撃たれて死ぬとはどういうことかを考えてしまう。
スコープ越しの、それを模した、望遠のように撮られるものは、むしろ不自由さを感じさせる。
何キロも先の象がこっちへやって来るのが見えても怖いじゃないか。見えなかったら自分が死んでしまう、これも怖い。
見るために半身だけ体を乗り出したのに撃たれて死ぬのも怖い。そんな遠くの相手に手を下せるのも怖い。
レバノン』みたいに笑ってしまうようなレンズの(スコープの)使い方でなくて良かった。
あの映画の戦車の砲塔の動きは本当に装置装置していて気持ちが良かったけれど。視線をずらすたびにウイーンっていう機械音が出て、あからさまな(死体、泣くところ)目撃へと次々に到ってしまうところ。
敵の狙撃手に命中して、右手が銃を握ったまま窓からだらりと垂れている。上半身。それでも、ずっと
照準を定め続けている。むこうの窓の奥の暗闇を見続けている。
緊張か。なにかをきりきりと耐えつづけること。違うな。維持。糸。
目に見えた戦闘シーンの少ない映画だから、そういうことで挿入されたシーンかなとも思うけれど、
解体の、爆弾からもたらされた視線とその緊張を無駄にしない、それを引き継ぐいいシーンだと思う。
まだいろいろあるけれど、疲れた、見たのは少し前で、また。
少年(ベッカムだっけ?)と、死体の少年と見違えることや・・・音についてももう少し・・・