はくにゃんの調書

日記、何もしていないことに気がつく

56

ゴールデン・デー
ぼくは今日までだ
と思う

桐島、部活やめるてっよをみた
朝井リョウの原作のほうはぼくは見ていない
ということで、映画のみでのはなしになるが
もっとはやくみておけばよかった
できれば映画館で、集団心理のなかで
でも映画館でひとりではないと果たして言いきれるのか?
まぁ、ぼくはテレビの前でケラケラ声をあげて笑ってみてしまったケラ
結果オーケイ

また見る見られるのはなしになるが
なりそうだが、視線を感じ続けるぼくも、
きみたちも、いくらかはこうして育ってきたのだし
そんなことはあたりまえじゃないかと
いうことになるのでやめよう
正真正銘のカメラを向け、向けられ、の逆転する
あの夕日の逆光のシーンは
良かったじゃないか
ケラケラ

待ち合わせに待ち伏せた
吹奏楽部のキャプテンがキスを
するところを
見せつけられているところ
どんどん音が高くなるところ
ああ、見ているこっちが
こころの心拍数みたい
ケ・セラ・セラ

ケっきょく、
噂程度で聞いていた
「桐島は出てこない」はいくらかそうだったと思う
タイトルには桐島と書いているが
桐島は姿を見せなかったので
桐島は出てこないことになる。
桐島は万能型のすごい人間らしい
桐島をみんな必要としている
桐島が辞めてしまうということに
桐島をみんなが要請してる
桐島と似ているやつがかわりに出てくる
桐島と親友らしいそいつが
桐島の肉体となって
桐島を仮構する
桐島の穴を埋めようとするが
桐島の変わりになれない
桐島のようにリベロできない
桐島と同じバレー部の補欠やつもでてくる
あたりまえだけど
桐島が不在にしてこの映画を駆動させている
だから桐島が出てこないというのは
あたりまえだけど少し正しくて
少しも正しくない
一般的な高校生としてしっかり生きてきた僕からして
群像劇と捉えても
すごくよく描けていると思う
わかるわかる、あるある
ありうる、ありそう
こういう感じだろう
そういう共感をいくつもできる
映画監督は無理だよとしながら、
神木○之介きゅんは核心的だ
そういうことに堪えながら
ほえ〜と見ただけ
ただただそれだけ
ここまで書いてなにがそんなに面白かったのかわからなくなってきた
ほとんど病気だよ
桐島が蔓延している
伝染もする
カメラを媒介して
違った角度でと言うだけで
もう、なにもかも手遅れだ