はくにゃんの調書

日記、何もしていないことに気がつく

ピュアということに惹かれる

物に名前がつく前の物みたいなことを数日のうちにまったく別の関連のところで見てなるほどと思った。なにかの音楽について書こうとして、音に名前はあるのかと。あるよね。でも、それはいつから? わたしは秋から! ^x^秋も深まりを見せてきたのが朝起きて洗濯をするルーティーンのベランダでサンダルをはく瞬間に思われたりだとか、夜中コンビニにたばこを買いにいくときのやけに静かな道だったりとかでわかる。誰も息すらしていない。久しぶりに部屋でひとりでビールを飲んで、その部屋が寒いと感じるふしぶしの既視感がたまらなく懐かしく思えてならず、それはそう、思えば長らくひとりで冷たい床に座って画面に向かう時間もなかったのだなといま思う。どうあれ秋は感傷に響け。朝起きて洗濯をしにベランダのサッシを開くと同時に流れ込んでくる冷気とともに俺の脳内では秒速何センチメートルかのようなナレートがそのうつろいゆく季節のさまを勝手気ままに述べ立てて行くが現実にはなにも俺を物語るものはない。そうはいっても冬はどうでもいいことをうだうだ言いたくなる。夜になると不安になる人種がある程度いる。俺はそんなことないが昨日コメダ珈琲で優雅なモーニングのあと、友人がもう無理なんだと言った。もう無理なんだ。トーストが分厚くてやわらかい、俺も一度はそういうことを言ってみたい。そいつと一緒に常日頃やっているゲームで、言い方は悪いがものすごく下手だと思うやつと2試合連続でマッチングした。おそらく最近はじめたのだろうということが見て取れたが、味方のちょっとしたミスを責め立てるようなチャットが少し気になって、というか相当ひっかかって、それも別に言い方としてはごく平凡なただの指摘にすぎないのだが、どうも俺は気になること/気にならないことのあいまが曖昧で、基準もなく、どうでもいいことがどうでもいいことのはずなのにいやに大きく自分の目に映ったりして、そういうときは気になることとしてこうやって、そのときもひっかかってしまったわけで。下手くそががたがたぬかすな! と自分の腕前は棚に上げてこころのなかでプンプンしていたわけだが、あとでそいつのプロフィールを見ると、プロフィール内の、名前をつけていろいろな設定を保存できるページにそれぞれの用途・場合のバリエーションごとに細かくびっしりしっかりと書きこみがしてあって、そんなの別に気にするほどのことじゃないだろうという設定まで組んであって、整理整頓というんじゃとてもたりない謎のおさまりみたいなのすらあって、こんなの別に気にするほどのことじゃないのだろうが、俺はなぜかものすごく感動してしまったというはなしをいまから書こうと思う。つまり、どこからかの他人の設定の流用なのだろうが、だろうがであるまいが、その多くのページを、いちいち書き込んで、保存して、少し考えたりして、あの一緒に戦ったあのときもそのどれが状況に合っているかそいつは検討したはずで、でも下手くそで、そういうところがたまらなく愛しく思える人間のよいところではないのか? 俺はそいつがそのページをきっちりと埋めるまでのおそらくわずかな尊い時間を思いながらこころのなかのプンプンがきれいに消え去っていくのを感じた。人間、理論立てて言ってみたり、頭ではわかっているつもりでも、実際にできるかどうかはまたわからないもんなんだ。たぶん。わかってるのに、できない。わかってるけど、うまくやれない。なにが本当の「わかる」なのかということはまた置いておくとして、そうやってわかってるけどうまくいかない人間の動きのちぐはぐさがたまらなく愛しい。ノータイムノーライフ。試行錯誤に肉体があるということか。谷内某さん風に今回は終わりたい。そのときのことを思い出す。