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はくにゃんの調書

日記、何もしていないことに気がつく

読む練習その1

先日発売かいしされた鈴木一平『灰と家』から「岸辺の木」というさくひんをとりあげてみる。

 

引っ越した町の、うす青い空の日差しで

水面をとりもどす雲に、細かく映ったとおくの小屋は

遅れてやってくる

木の高さで枝がゆれたあと、すこし遅れた時間にも

なじむよう、ここに届くまでの時間をまねて

雲のうしろを抜けたあと

目の高さまで届けられた木が、話しかけてくる

太字引用者。

ひとことで言うなら、なんてことのない風景のようだ。恥をしのんで書くなら、川か湖の岸辺、雲がかかっていて、日がさせば、水面も色をとりもどすかのように、波間に刻まれながら映るとおくの小屋という、まぁ、そういった景色というふうにも考えられる。

だけど、とうぜんそんなふうには書かれていない。遅れてやってくるは小屋なのか 木なのか高さなのか。時間なのかもしかすると光なのか、そのことが気にかかり、抵抗となってそのあとの行にまでひきづられていく。いや、そもそも小屋が映ったのは雲なのか、ということにも遡及して、そういったいくつかの主体の可能性を感知しながら、埒が明かないので次の行へいく。木の高さとあって、ただ木とあるのと、木の高さとあるとでは、まず、木の高さまで至るながめるぼくの目の動きを思い出し、また、高さとはいっても、とおくからながめれば、木は目線の先にもあり、この高さも抵抗となっていく。すこし遅れたのところで、この高さについての無駄かもしれない受け止めを指摘されているようにも感じ、そうせざるをえず、笑いながら次の行へ。ズレがあるここに届くまでの時間をまねて、あと、とあるところで、時間をまねる、景色をまねる、光をまねる、と至り、雲のうしろ…を無視して、再びあらわれた目の高さを見、までを見、届けられた木を見て一連目が終わる。ここに届くまでの時間をまねての部分が大きな核となっているのではないか。ここに届くまでの時間を考えるキッカケになるからだ。水面は、雲は、小屋は、木の高さは、そもそも青い空は、どのようにしてここにあらわれたのか、ということをぼくに意識付けし、目の高さにいたるまでの一連の動作に抵抗と遅延をもたらす。そのさい、ここ、まで、あと、といった語までが、かつてないほどに動作や時間をふくんだものとして立ち上がってくる。いっしゅの再帰関数的感覚がある。話しかけてくる。

 

二連目。

さっき川べりの土手にはこんで、乾かしたはずの木陰が

また落ちていて、木の高さほどの日だまりに

かど部屋の、山茶花のなかに

あらわれる野を横切る雲が、景色は

しずかに厚くなる、いまは見えないところまで

目の高さを乗せた木は

それが倒れこむ土砂の影だったと気づく

太字引用者。

木陰を乾かす、落ちる、また木の高さ、日だまり、ときて目がうごくうごく。そろそろ処理しきれなくなり、ぼくも横切ってとばしとばし。そして、目の高さを乗せた木。目の高さを乗せた木。何も知らないでこの行だけを読めば、目の/高さ/を/乗せた/木として、わからなさだけがあるところを、ここまで読んできたなかでの読み方の練習みたいなものの成果として、この一行をはっと輝かせる、目を見晴らせる一行として読むことができるという、ただそれだけのはなし。

 

これがあってるのかどうか、あっているということがあるのか? あとは読み返す中でまた気づくこともあるだろうが、ひとまず備忘録的にここに書いておく。違うところに目が行き、加筆、修正することももちろんある。とにかく、読み切れなさがある。これは高慢かな。だが、たとえばこの詩に関しても、左のページにある横文字をどう取り込めばいいのか。わからないことが多い。

ルビ詩と言われてているものの、画期的な読み方を誰か書いてくれないかそれを待つ。行と行とに挟まれたルビ行が目を惑わす。おれみたいにもう無理だ、となれば、とうぜんルビはルビだけで読んでみたりもした。それはそれで良い。良いのだが、二行を同時に取り込んで次の行へというのは、はっきり言って二行が限界だ。なにも考えられない。この目と頭の悪さを恨みつつ、、、

ところで、はじめて引用機能を使ったのもあり、またスマートフォンからの編集というところがあり、ただしく引用できてきるか不安である。改行などに問題がなければいいが。

いまは新幹線のなか、充電が30%をきった。

 

追記

スマートフォンから確認。同じ行であれば、あぶれたぶんは一段頭下げてというしきたりもあるような気がしますが、ここではやってません